それまでの視点から離れ、自分の目で見るということ。
植物の持つ表情の豊かさを発見する瞬間、
また一つ新しいいけばなへの道が開かれる。
いったん身につけた教程から離れることで、十人十色の独創的ないけばなを目指す。
そのための龍生派独自の方法論が三代家元𠮷村華泉の提唱した「植物の貌」です。
その元にあるのは、
「自分の目で見よう。植物にもさまざまな面、『貌』がある。それを自分で発見しよう」
という理念です。
龍生派の教程では、初歩の段階で水盤に剣山を使っていける盛花を、
中伝になると筒型の花瓶にいける投入れを学びます。
投入れは剣山も花留めも使うことができないので、花は重力に従って動き、
向きを変えて思うようにならないもどかしさがありますが、
この教程では、その植物に寄り添い、妥協しつつ、
魅力を引き出しながら臨機応変に構成に反映させる力を身につけます。
この中伝の投入れが終わった瞬間が、いよいよ表現のいけばなの始まり。
「植物の貌」の四つの骨格が教程の中に採り入れられる皆伝の半ばを過ぎると、
ものの見方、花との向き合い方が明らかに変化していくのが
自分の中に感じられるようになっていきます。
それまで真・副・体の型に従っていけていたところに、
「その花の魅力は本当にその向きだけなのか?」
という問いかけが入ってきます。
裏側が面白いのでは?横から見るとどうだろう?
基礎から離れ、
自分が満足してしまいがちな花の見方をまず自覚して、
それだけではない他の魅力を探してみよう、
というきっかけづくり。
花を使うことに対しての取り組み方を改めて考えること、
それが「植物の貌」のはじめの一歩です。
龍生派が大切にしているのは、
いけている時に「あ、ここが面白い」と
気づく瞬間を意識すること。
その時見つけた一つの植物の表情をさらに膨らませるには、
どんな素材のどの部分を組み合わせたらいいかを考えるのが
「植物の貌」で言うところの「取り合わせ」です。
時には植物ではないものを取り合わせてみることも。
セオリーにとらわれず、
素材と真剣に向き合って魅力同士を組み合わせてみる。
それが取り合わせの妙なのです。
積極的に手を加えて植物を変貌させ、
その過程や、最終的な姿を通して、
植物に備わっている別の面を見つけてみようというのが、
この教程の目的です。
花や葉をむしったり、
枝を折ったりする行為には残酷なイメージが伴いますが、
そもそも植物を摘み取ることから始まるのがいけばな。
花の命と向き合い、
今まで知らなかったその植物の
意外な姿を発見した時の驚きと感動を
「自分の中に生かす」という意識を持って臨みます。
器の上に構成するだけでなく、環境を自分で設定してから
花をいけるという経験を積みます。
現代のいけばなは床の間のしつらいを越えて、公共空間の
演出、野外や劇場でのインスタレーションへとその可能性を
解き放ち、より自由に多彩になりつつあります。
水の中に仕掛けをつくってみる、
日用品でオブジェを仕立ててみるなど、
素材使いとアイデアの引き出しを
たくさんつくるトレーニングをすることで、
発想の幅を広げていきます。